諦めても、人生は終了しません。

諦めてはいけない。

諦めること = 負け。悪。

こんな思いで生きている人も、少なくないのではないでしょうか。

かつての私も、その一人でした。

ぼんちゃ
まだまだ出来る。
こんなところで、弱音吐いてちゃだめ。
諦めたら負けだ!!

「諦めてはいけない。」

この呪縛のような固定観念が解けたのは、友人の言葉を聞いた時のことでした。

卒業後への焦り

約3年前のこと。

私は大学を休学しながら、自分はこれからどう生きていこうかと、模索していました。

小さい頃からの友人二人とは、当時も定期的に近況報告会を行っており。
あまり人と会えなかった時期も、その二人には会うことができていました。

私も含めた三人は、同い年。
当時、二人はもうすぐ卒業し、就職をする直前。

当時の私には、焦りもあったのでしょう。

これから何をするのか。
こんな思いがあって、こんなことがしてみたい。

自分の「これから」についてを、思うがままに話していました。

「私はもう諦めてるよ!」

そんな話を聞いて。

一人の友人は、あっけらかんと言ったんです。

友人
一回さ、諦めちゃえば?
私はもう、とっくに自分を諦めてるよ!笑

…ん?諦める?
……諦めるの??
諦めるのって、悪いことじゃないの???

言葉を受けて、私の頭には「?」が浮かびながらも、友人は、笑いながら言っていたんです。

長年の信頼関係が構築されている上での言葉だったので、その言葉に不信感を持つこともありませんでした。

しかも、彼女自身も、自分を諦めてるって……!??

諦めると、楽になる。

衝撃を抱いている私をよそに、彼女の言葉は続きました。

友人
自分に期待してないからさ。
だって、私そんなに出来ないもん。笑

ぼんちゃみたいに、自分の人生について考えることもできない。
一つのことを長期間やり続けることもできない。

でも、私はそれでいいんだよね。
そう思えるようになったら、楽になった。笑

この言葉を受けて、私は完全に呪縛から解放されました。

諦めてもいいんだ。
諦めた自分も、認めてあげればいいんだ。

「諦」と「明」

その後、自分で「諦める」という言葉を調べてみました。
実は、「諦める」が持つのは、ネガティブな意味だけではなかったんです。

諦の意味は日本語では「明らか・明らかにする」に近いのです。実際に日本語の「諦める」と「明らか」は言葉として同源。物事の真実の姿やありさまを明らかにすることで、やっと諦められるというニュアンスを、もともと含んでいました。

引用元:多くの人が知らない「諦める」の本当の意味

「明らかにする」とほぼ同源だなんて。
全く知りませんでした。
むしろポジティブじゃないですか。

それから私は諦めることの訓練をするようになりました。

なかなか難しい。「諦めること」。

それから約3年。

私はまだ、自分自身を「諦め」きれてはいません。
自分に期待している部分も、まだ沢山あります。

でも。
自分自身を「明らか」にすることは、随分できるようになりました。

自分に素直になれた。
自分の大切なものが分かるようになってきた。
自分のありたい形ややりたいことが見えてきた。

今までの自分の思考を変えるのは、簡単ではありません。
これまで生きてきた自分の歴史があるから。

それでも、私は諦めることを知ったから。
これからもずっと、上手な諦め方を模索していきます。

ぼんちゃ
諦めても、人生は終わらなかったよ!
まだまだ続きそうです。笑

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