頑張らなくていい。ただ、ひたむきでありたい。

「頑張ること」から離れられない

これまで、「頑張ることをやめよう」と何度決意したか分からない。

頑張らないための仕組みを作ろうと努力した。

頑張らない自分を受け入れようと肯定しようと努力した。

「頑張らなくていい」を掲げた。

でも、私はどうしたって頑張りたいらしい。

自分の実力なんて認められるわけもなく、当然努力の量も質も褒めることも出来ず、「生きてるだけでいい」なんて自分自身に対して思うことはできない。

2019年の私のテーマは、「自分に優しく、他人に優しく」、である。

他人への優しさの前に、自分に対して優しくなれない。

頑張らない自分は悪だ。頑張らない自分は情けない。頑張らない自分は必要ない。

いつからか染み付いた自分に対する厳しさを緩めることは簡単じゃなかった。

未だに毎日、何をやっても「何もしていないじゃないか」と感じてしまう。

「もっと出来なかったのか」、「なんでやれなかったんだ」、「出来ないならそもそも挑戦するな」、と自分の言葉が自分自身を突き刺す。

言葉は時に優しい武器になる。しかし、私が自分に与える言葉は、凶器だ。

痛い。とても痛い。自分の心が押し潰される。

そしてまた、「今日も頑張れなかった」と涙しながら1日を終える。

今もそんな毎日を過ごしている。

「頑張らない」じゃない。「頑張れない」んだ。

私は「頑張ること」から離れられない。

でも、自分の思う存分頑張ることが今はできない。難しい。それよりも自分の病気と向き合って、心の健康を作っていくことが大切だ。

分かっている。でももどかしい。

やりたいことも、進みたい道も、目を輝かせることも、ようやく少しだけその影が見えるようになってきたのに。

頑張っている人はたくさん居るのに。どうして私はあんな風に動けないのだろう。

いや、違う。

私は病気だ。

言い訳がましく見えるだろうが、これはただの事実だ。

人前が怖くて、外出が怖くて、電車が怖くて、家に居るだけでも緊張していて、毎日症状と戦っているではないか。

今の私は、自分の感情がすべてじゃない。

私の中には、症状がある。

「頑張らない」んじゃない。

「頑張れない」んだ。

自分の頑張っている姿も、好き。

私が頑張ることから離れられないのは、きっと離れたくないからだ。

自分が頑張っている姿が好きだから。

何かに打ち込める瞬間が好きだから。

出来ないものを悔しい中でクリアしていくことが好きだから。

他人が頑張っている姿を見ているのも好きだ。

頑張っている人は、輝いている。

対象が何であれ、何かに向かう姿は美しい。

だから私は、いつまで経っても「頑張ること」に執着している。

まだまだ頑張りたいと思っている。

頑張れないから、ただひたむきに。

でも、今の私が出せるのは「頑張れない自分」。

仕方ない。

頑張り方をちょっと間違えて、頑張りすぎて、体も心も壊したんだ。

頑張れなくたって当たり前なのかもしれない。

本当はそんなこと思えないけれど、今頑張ろうとしても、症状は悪化するだけ。

だから頑張るのはもう少し未来の私に任せよう。

今の私は、頑張れなくてもいい。

その分、ひたむきに生きよう。

直向き。

自分に、一途に。

内なる力を溜めて、いつかそれが外に出せるように。

自分と共に生きよう。

生き方に正解はない。

きっとまた模索して、変化するだろう。

でも今の私は、生きることにただひたむきでありたい。

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