「普通に生きる」が出来なくなった。
かれこれ約4年も前のこと。
私は、それまで至って当たり前だったことが、出来なくなった。
「普通に生きる」こと。
毎日当たり前に起きて、外に出かける。
学校に行く。
アルバイトに行く。
友達と遊ぶ。
デートをする。
電車に乗る。
人と話す。
電話をする。
挙げたらキリがないけれど、当たり前だったこと、全部。
不安障害になった私は、普通に生きることが、出来なくなった。
そして私は、レールを外れた。
普通に生きられなくなった私は、まずは「引きこもり」になった。
気分の良い日は母が連れ出してくれて、一緒に出かけようと言ってくれたので、完全なまでの引きこもり期間はとても短かった。
それでも1,2ヶ月は外に出れなかったし、通院のたびに泣いて、顔を白くして、母が運転する車になだれ込んでいた。
引きこもりになった私は、大学を休学した。
大学を休学してからの私は、とにかく「生きる」ことに向き合う毎日で。
生きた心地がしない中で、それでもなんとか「生きる」を探し続けていたように思う。
そして、私はふと、休学中に気付いた。
「ああ、私は人生のレールから外れてしまったんだな。」
真面目に、普通に、それなりに。
なんとかそこそこで生きていた私は、もう消え失せてしまった。
もう自分は、レールの上に乗っていた自分ではなくなっていた。
レールの存在を知らなかった私
恥ずかしいことに、レールに乗っていた頃の私は、そもそもレールがあることすら知らなかった。
順調に進んでいくレールの上で、私は何の不安もなくただ前だけを見ていた。
レールが外れた時に初めて、私は自分がレールに乗っていたことを知った。
レールが外れた、というのが最適な表現ではないかもしれない。
これまで普通に乗っていたレールが、突然終わりを迎えた、そんな感じだったかもしれない。
とにもかくにも、私はレールの存在とそのありがたみを、当時21歳にして初めて知ったのであった。
外れることの、恐怖。
そもそも乗っていることすら知らなかったのに、レールを外れるというのは、随分と恐ろしいことだった。
これまでずっと、「みんなと同じ方向」を大切に生きてきた。
「誰も仲間はずれにならないように」生きてきた。
「みんなが右と言ったら、右」を向いて生きてきた。
私の生きてきた辞書の中には、「みんなと同じように出来たら偉い」とまで書いてあった。
それが突然、外れた。
もうその恐怖だけで、不安障害が悪化するんじゃないかってくらい。
たかだか、大学が1年遅れたくらい、なのに。
当時の私にとっては、「このまま死んじゃう」くらいの怖さ。
みんなが就職した時の、取り残された感覚。
私はきっと、一生忘れない。
外れてみたら、世界は広い。
レールから外れた私に残されたのは、レールの外を覗きにいく時間だった。
1年の休学期間。
体調もあって、そんなに大それたところに行けたわけではない。
それでも、自分が21年間で凝り固めてきた価値観とか、良しとするものとか、そういうものを全部見直すきっかけになった。
外れるのは、めちゃくちゃ怖かった。
怖くて死にたくて、辛かった。
それでも生きて、向き合って、歩いてみたら、私の見ている全てが世界ではないことを知った。
外れたレールには、もう戻らない。
それから、4年。
今の私は、きっとレールに戻ろうと思えば、なんとか戻れる。
病気は今も完治なんて全然していないけど、上手な付き合い方は随分身につけた。
レールから外れたからこそ、敷かれているレールのありがたみも知った。
「普通」とか「当たり前」がどんなにかけがえのないものかを知った。
でも、私はもう敷かれたレールの上には戻らない。
自分でレールを敷きながら、生きていく。
この4年間で、私はある一つの技術を身に着けた。
「レールを自分で敷くこと」。
何もない場所に、自らレールを築いていくこと。
橋がない場所に、自ら橋を架けて渡ること。
一点のシミを、じわじわと広げて素敵な模様に変えること。
私は、ただ敷かれているレールに乗ることよりも、自分でレールを敷く楽しさを知った。
楽しいからこその苦しみも知った。
いつのまにか、レールを敷き続けることが私にとっての「当たり前」に取って代わっていた。
私は、まだまだこれからたくさん生きる。
どれだけたくさんのレールを敷けるのだろうか。
きっと苦しい。でも、きっと楽しい。
だから私は、生きていける。